ジムニーSJ30と心の棘

2015年08月28日 18:01

懐かしい写真が届いた
SJ ジムニー 開発

元・鈴木自動車工業の研究所で働いていた同僚から思いがけない写真が届いた。軽い目眩を覚えた。それは、今、48のショールームにあるSJ30のスズキデザインチームの写真だった。その同僚は僕のところに1981年製の同型式ジムニーがあるなんで勿論知らない。その友はそこに映っているデザイナーの懐かしい写真を見つけて送ってくれたのだった。そこには1年先輩のOさんと主任のSさん、そして僕と入れ違いに入った二人のデザイナーだった。手塩にかけて育てたデビュー直前のジムニーと4人の誇らしげな姿があった。4人の名前と1970年の終わり・・・簡単なメモが添えられたメールだった。Oさんはその後10年ほどして急性くも膜下出血でこの世を去ることになる。

軽い目眩を覚えたのはいくつかの因縁があるからだ。

話はつい1ヶ月前のこと・・・僕の田舎は越後の長岡で冬は雪深いところだ。急逝した長岡の姉の家を預かることとなり、足の確保のためにジムニーを探していた。たまたまオースティンヒリーのエンジン調整で尊敬するH師匠の工場に行っていた時のこと。「良かったら2サイクルのジムニーがあるけど乗ってみますか?」是非も無いお誘い。ガレージに行くと、何とそこには赤いボディーのSJ-30。この時ばかりはH師の説明も上の空。
「あー、Oさんが東京研究所から戻り初めてエクステリアの主任を努めた自慢のSJだ・・・」
H師匠も同行したMGTFのMさんもピンと来ていないようだった。巡り合わせのように当然息子と共有にガレージに収まった。

suzuki jimny garage

この頃はちょっと胸が重苦しい思い出がある。1973年(Jrが生まれる年)Oさんと僕ともう一人同期入社の若手デザイナー3人で、意気揚々と浜松から横浜にあった研究所に転勤した。明日の鈴木の飯のタネを生み出すデザインをするためだった。浜松では大部屋生活をしていたが、研究所では三菱、ヤンマー、ホンダ、コマツとサクセスしてきた所長の肝入りで、3人が占有する治外法権のようなデザインとモデルルームを与えられた。研究者に混じり負けじと生意気なデザイナー振りを発揮していたのだろうと、今も赤面する事がある・・・が、O さんも僕も研究所で多くのことを教わった。

suzukire.jpg

しかし、この時代は鈴木にとって受難の時代。米国のマスキー法をクリアすべく、鈴木はエピックエンジンを開発。急に株価が上がったが大した効果がないことが伝わると株価は急落。代わって宿敵ホンダが希薄燃焼システムのCVCCエンジンを搭載したシビックが登場。鈴木の同僚も購入する始末。「2サイクルはもう駄目だ!」この時からバイクもクルマもこぞって4サイクルエンジンの開発に資源と集中投資することになるのだった。何とロータリエンジンにも活路を求めていた。それはRE50というロータリーバイクを500台生産しアメリカに輸出された。この話はまた別の機会に書いてみたい。

Suzuki Fronte

そんなことがあって金食い虫の研究所は一旦閉鎖。まだ今、健在の名物社長"修さん"前の実次郎さんの時代だ。僕らは、行きは意気揚々,帰りは意気消沈。3人して肩を落として浜松に戻る。デザイン課のみんなは、「やー実力のある若手が戻ってきてくれて助かったよ!」と温かく迎えてくれる。そんな中、僕はとりあえず鈴木の船外機のフラッグシップをまとめる仕事。同期の仲間はジェンマの前身のデザイン。そして写真に納まったOさんはSJの基本計画チームに入る。そうこうしているうちに、事態はのっぴきならない状態になる。排ガス対策を乗り切るために、急遽ダイハツから期限付きながらフロンテに搭載するエンジンを購入することになるのだ。

SUZUKI JIMNY

ある日社員全員が食堂に集合せよとの放送。行くと社長が壇上に立ち、エンジン購入についてのいきさつを沈痛な表情で説明する。声がうわずって「この屈辱を忘れず頑張ろう」との檄があった。それから間もなく僕は鈴木を退職し東京の販売促進の会社に、今で言うところのヘッドハンティングされることになる。給料は何と鈴木の倍額。妻とJrともう一人の息子を養うに十分な額だった。デザイン課のみんなは「頑張れる奴から行けば良いよ」と快く送り出してくれた。もちろんOさんと同期のMくんも。僕はちょっと重い気持ちを清算しきれずに浜松を発つことになる。

それから間もなく、一新された「SJ30」を社外の人間として見ることになる。「Oさんのジムニーができたんだ!」と重苦しい気持ちが少し楽になった。その時は数年してOさんに最後の別れ告げに浜松に行くなんて夢にも思っていなかった。

そして、3日前に届いた研究所の同僚からの懐かしい写真。もうひとつ記憶の扉が開いた。研究所で3人とも高いデザインの洋書を定期購読し始めた。スタイルオートというイタリアのデザイン誌だ。決して回し読みなどしない。これがデザイナーとしての矜持だ。この雑誌はやがてカースタイリングの発刊に繋がるのだ。そこにイギリスのランドローバのデザインレポートがあった。僕のOさんもこんな骨太の仕事をしたいと語った。SJ30はそんなOさんの見事な仕事振りを証明してくれるロングライフなグッドデザインだと思う。鈴木自動車工業からスズキに代わっても、鈴木魂は引き継がれている。僕が携わったオフロードバイクのハスラーが4輪になったとしてもね(笑)

SJ30のデザイナーOさんと、実車を最高の状態で預かってくれたH師匠と、そして写真を届け、あの頃のちょっと後悔の念に駆られた大切な思い出を蘇らせてくれたTさんに感謝!

1981 SUZUKI JIMNY

ブルーバード411SSにも忘れられない思い出と因縁がある。そんなクルマたちがごく自然にガレージにやってくる。いつかまたそんな想いを書いてみたい。

48の父


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僕のクルマ遍歴 6

2012年04月16日 08:00

キャンパーノスタルジー
徹夜をして一仕事終えると、眠っている息子二人をパジャマのままキャンパーに放り込んで、取り合えず日常から離れる。この辺りならいいだろうと、人気のない場所に駐車し眠り込む。夜が開け辺りが明るくなると、何やら賑やかなざわめき、通勤の人たちが怪訝な顔をしてクルマを除き込通り過ぎる。

・・・これをロマンティックに言えば、夜中に何の目的も定めず知らない土地へワープする。土地の人たちが仕事や学校に出かけて行く日常世界の真っただ中に、縁もゆかりもない旅人が忽然と、生活装備の整った小さな空間で目覚め、パジャマのままモーニングコーヒーを楽しむ。ちょっとした旅愁を感じるシーンです。わかるかなぁー(笑)。しかもボロキャンパーはベテランの哀愁も醸し出します、土地の人から見れば不審車でしかありませんね。

キャンパーが中古車屋さんに引き取られて行く背中を、家族4人で見送るのが切なかったです。だって本当の生活ぐるま(ホームレスカー?)だったのですから・・・。またキャンパーが欲しくなりました。でも「道の駅」に寝泊まりする軽キャンパーライフはどうもなぁー・・・。

「何時かはクラウン」の時代が始まります
仕事が忙しくなり事務所を都内に借りると、キャンプ場が縁遠くなってきました。それ以上に、残念ながらクルマを楽しむ時間も気持ちの余裕もなくなります。クルーの仕事の紹介で触れましたが、アメリカのコレコインダストリーからザクソン(セガのオフィシャルゲーム)の開発と一部生産を受注すると、長野の成型工場と新潟の組み立て工場を行ったり来たりしなければならなくなります。
そのために・・・楽ちん!広い!丈夫で安全!そこそこ余裕のあるパワー!しかもビジネスをしているっぽく見え、保守的な人たちから仲間として見られる(笑)そうです、もう迷う余地などありません。正しい親父のサクセスカー、いつかはクラウンです!

1977-1979 TOYOTA CROWN SUPER SALOON

これは取引先の金型屋社長が乗っていたクルマで、堂々ベンツマスクのクラウン2600・4ドア・ロイヤルサルーンです。押し出しが欲しい社長さんが乗る車として絶対条件の3ナンバー!これで僕もデザイナーから社長さんに昇格です(笑)でも、内外装とも、それなりに使い込んだ、はっきりって中ボロ(よく言えば適度なヤレ感)。なかなか新車オーナーには復帰できません。クラウンは道具として徹底的に使い切りましたね。ベンコラはとても快適で、助手席から乗り降りできる便利さは今でも忘れません。写真は会社の前で撮ったものですが、今と違ってポプラ並木で情緒がありました。(今はこんな感じです)

クラウンと言えばやっぱり「白」
次に乗り換えたのが、クラウン2800・4ドアピラードハードトップ・ロイヤルサルーンです。ちょっとお金が儲かったんでしょうかね?でも新しめの中古(笑)。この車はフロントバンパーのトンガリデザインが好きでした。5ナンバークラウンとの違いは、前後バンパーが全長寸法を気にしないで、のびのびしているところ。2600とは異次元の静粛性。これはクラウンの売りでした。もちろん200プラスの走りは余裕。ほぼ1年の所有でした。アメ車好きの僕としては“リトルアメリカンデザイン”がお気に入りでした。

1979-1983 TOYOTA CROWN

バブル時代の正しいクルマ選び
またちょっと儲かったんでしょうね(笑)。またサクセスします!3リッター・ロイヤルサルーンGでした。「G」ですよ!しかもサンルーフ付き。東京ではカローラよりもクラウンの新車登録台数が多い時代で、交差点で豆腐のような四角いクラウンが並びます。この時に5ナンバーより3ナンバーが偉い!同じ排気量だとスーパーサルーンかロイヤルサルーンか?で偉さを競う。それでも同じだと、そこに「G」の記号が付されているかどうかが最後の決め手!水戸黄門の印籠のようなものです。それでも差がつかないと後はサンルーフで勝負です!(笑)。

1983-1987 TOYOTA CROWN

バブル時代は、はっきり言って高額の車が偉かった!排気量が大きくて馬力が大きいのが偉かった!でもね、面白いことにドイツ車や英国車は、また住む世界が違う車。ましてクラシックカーなんて異次元の世界ですから、偉さを競う対象にはならなかったんです。僕も当時は関心がなかったなぁー。そのころからクラシックカーに乗ってる方は偉い!お馬鹿な話をしてしまいました(汗)。

クラウンに乗り続ける理由
借りた都内の駐車場が7万5千円。敷金2ヶ月、それも順番待ち、馬鹿な時代の冗談のような話です。駐車場が圧倒的に不足していた時代です。まさにバブルの真っただ中!僕のバブルの尻尾にいたんですね。確か携帯電話の保証金が20万円だったと・・・。

三代のクラウンに乗り続けた理由は、毎日往復100キロの通勤と深夜帰宅のパターンをストレスなくこなすことでした。クラウンはシートがヤワで腰が沈む。足回りもどっかに飛んで行きそうなグニャグニャ感。おまけにハンドリングもプアー。ヨーロッパ車に心酔している自動車評論家と、自称エンスーには馬鹿にされる駄目クルマでした。でも、その駄目なポイントが実は美点になることを知りました。疲れた身体と頭にストレスを与えないように、クルマを操縦していると言う意識を抑えてくれる。

そうなるとドイツ車はドライバーに求めるものが多くてNG。“ダルでいい加減な運転をしていても身体を運んでくれる適度なルーズさ”を持っているお座敷クルマ。それがクラウンでした。その時の僕のビジネスライフからすると最適な選択だったと思います。

なんだかんだ言われても、やっぱりクラウンは売れています。僕の理由以外に、きっと日本のお父さん、社長さんの心を射止める魅力がクラウンにあるんです!クラウンに乗ることを目標に頑張ったオーナーに乾杯!です。

「あーやっぱりクルマっていいですね」

48の父


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僕のクルマ遍歴 4

2012年04月11日 08:00

ほぼ1年間中断してしまいましたが車遍歴をボチボチ再開します。ちょっとお付き合いください。

事故後乗った最初の車はレオーネ
大失敗の交通事故の後に会社を退職し、個人営業デザイン事務所を春日部の自宅に開業します!このくだりはコチラでご覧ください。

1972-1979 SUBARU LEONE RX
1971-1979 SUBARU LEONE RX

懲りもしないで手に入れた車が「スバル・レオーネ RX」です。八潮のある怪しげな中古車屋さんで、確か30万円でした。これはヘッドから水か漏れるエンジンで、ヘッドとブロックが単純な面合わせ、それをガスケットでシールしているだけですから、仕方ありません。都内に仕事に行く時、助手席にポリタンクを携行して走った記憶があります。ボロボロボロと低音を響かせて回る水平対向エンジンは、それなりに感応的でしたね。

子供が大きくなるとワンボックス
今度は初めてのトヨタ車で久しぶりの新車!です。トヨタ・ライトエースワゴンはサンルーフ付きで子どのたちに大好評でした。これはトヨタが最初から乗用を目的に開発しバンだったのです。この後ワンランク上のタウンエースワゴンが発売になり、ワゴン車ブームをつくることになります。リアのエアコンもついてリッチでしたし、何よりもフルフラットシートが快適!でもネ、対面シートにならないんです(苦笑)。今考えれば、とても気持ち悪く対面なんかしていられない!不要なものなのですがね。それでも欲しかった!未成熟のオーナーです。

townace.jpg

やっぱり何か物足りない・・・至れり尽くせりで不足がないのだけれど、1年したら事故を起こすことになった“キャラバン改造キャンパー”が頭を過ります。でもかみさんと子供は新車のライトエースワゴンをとっても気に入っていて・・・。でも家族と思いた時に自由にキャンプに連れ出したい。だって個人営業のデザイナーだから、仕事が断れない。しないと仕事が入ってこない。そんな時代でした。

何と!「完全無欠」のキャンパーに手を出す!
ここで出会ったのが武ボディーの武キャンパーです。ご存じ日本のキャンピングカーづくりではパイオニア的存在で、日芸の先輩でもあるマイク真木さんと一緒に、国産初のバンスタイルのキャンパー開発をしました。
この工場長であり、尊敬するベテランオートキャンパーのSさんが、トラックボディーで新型車をつくるにあたり、キャンプ場では上座を占めていた(笑)トヨタ・ハイエース改キャンパーを、「売ってもいいよ」という話に、あれよあれよという間になりました(そうしたんですがね 笑)。

TOYOTA Hi-ACE Camping Car

家族が大好きだった“とってもきれいなライトエースワゴン”を売り払い、“煌くような装備の歴戦キャンパー”(今にして思えばボロキャンパー 爆笑)を買うはめになりました。キャンパーが珍しかった時代、砂町の工場から、スーパーセブンが興味の対象でみられるように、羨望の目(自分だけの思い込み)で見られていると言う高揚感(錯覚)で、意気揚々と自宅に帰ります(車好きなら分かりますよね!!でも、なぜか・・・ちょっと不安でしたが、迷いを振り払い!元気にドアを開けて「車がきたよ!」って大きな声で家人を呼びました。しかし・・・

この続きはまた。

48の父

追伸
微笑ましいい(恥ずかしいw)家族写真ばかりですいません(汗)実家のアルバムを漁ればいろいろあるんですけどね。 Jr


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