懐かしい写真が届いた
元・鈴木自動車工業の研究所で働いていた同僚から思いがけない写真が届いた。軽い目眩を覚えた。それは、今、48のショールームにあるSJ30のスズキデザインチームの写真だった。その同僚は僕のところに1981年製の同型式ジムニーがあるなんで勿論知らない。その友はそこに映っているデザイナーの懐かしい写真を見つけて送ってくれたのだった。そこには1年先輩のOさんと主任のSさん、そして僕と入れ違いに入った二人のデザイナーだった。手塩にかけて育てたデビュー直前のジムニーと4人の誇らしげな姿があった。4人の名前と1970年の終わり・・・簡単なメモが添えられたメールだった。Oさんはその後10年ほどして急性くも膜下出血でこの世を去ることになる。
軽い目眩を覚えたのはいくつかの因縁があるからだ。
話はつい1ヶ月前のこと・・・僕の田舎は越後の長岡で冬は雪深いところだ。急逝した長岡の姉の家を預かることとなり、足の確保のためにジムニーを探していた。たまたまオースティンヒリーのエンジン調整で尊敬するH師匠の工場に行っていた時のこと。「良かったら2サイクルのジムニーがあるけど乗ってみますか?」是非も無いお誘い。ガレージに行くと、何とそこには赤いボディーのSJ-30。この時ばかりはH師の説明も上の空。
「あー、Oさんが東京研究所から戻り初めてエクステリアの主任を努めた自慢のSJだ・・・」
H師匠も同行したMGTFのMさんもピンと来ていないようだった。巡り合わせのように当然息子と共有にガレージに収まった。

この頃はちょっと胸が重苦しい
思い出がある。1973年(Jrが生まれる年)Oさんと僕ともう一人同期入社の若手デザイナー3人で、意気揚々と浜松から横浜にあった研究所に転勤した。明日の鈴木の飯のタネを生み出すデザインをするためだった。浜松では大部屋生活をしていたが、研究所では三菱、ヤンマー、ホンダ、コマツとサクセスしてきた所長の肝入りで、3人が占有する治外法権のようなデザインとモデルルームを与えられた。研究者に混じり負けじと生意気なデザイナー振りを発揮していたのだろうと、今も赤面する事がある・・・が、O さんも僕も研究所で多くのことを教わった。

しかし、この時代は鈴木にとって受難の時代。米国のマスキー法をクリアすべく、鈴木はエピックエンジンを開発。急に株価が上がったが大した効果がないことが伝わると株価は急落。代わって宿敵ホンダが希薄燃焼システムのCVCCエンジンを搭載したシビックが登場。鈴木の同僚も購入する始末。「2サイクルはもう駄目だ!」この時からバイクもクルマもこぞって4サイクルエンジンの開発に資源と集中投資することになるのだった。何とロータリエンジンにも活路を求めていた。それはRE50というロータリーバイクを500台生産しアメリカに輸出された。この話はまた別の機会に書いてみたい。

そんなことがあって金食い虫の研究所は一旦閉鎖。まだ今、健在の名物社長"修さん"前の実次郎さんの時代だ。僕らは、行きは意気揚々,帰りは意気消沈。3人して肩を落として浜松に戻る。デザイン課のみんなは、「やー実力のある若手が戻ってきてくれて助かったよ!」と温かく迎えてくれる。そんな中、僕はとりあえず鈴木の船外機のフラッグシップをまとめる仕事。同期の仲間はジェンマの前身のデザイン。そして写真に納まったOさんはSJの基本計画チームに入る。そうこうしているうちに、事態はのっぴきならない状態になる。排ガス対策を乗り切るために、急遽ダイハツから期限付きながらフロンテに搭載するエンジンを購入することになるのだ。

ある日社員全員が食堂に集合せよとの放送。行くと社長が壇上に立ち、エンジン購入についてのいきさつを沈痛な表情で説明する。声がうわずって「この屈辱を忘れず頑張ろう」との檄があった。それから間もなく僕は鈴木を退職し東京の販売促進の会社に、今で言うところのヘッドハンティングされることになる。給料は何と鈴木の倍額。妻とJrともう一人の息子を養うに十分な額だった。デザイン課のみんなは「頑張れる奴から行けば良いよ」と快く送り出してくれた。もちろんOさんと同期のMくんも。僕はちょっと重い気持ちを清算しきれずに浜松を発つことになる。
それから間もなく、一新された「SJ30」を社外の人間として見ることになる。「Oさんのジムニーができたんだ!」と重苦しい気持ちが少し楽になった。その時は数年してOさんに最後の別れ告げに浜松に行くなんて夢にも思っていなかった。
そして、3日前に届いた研究所の同僚からの懐かしい写真。もうひとつ記憶の扉が開いた。研究所で3人とも高いデザインの洋書を定期購読し始めた。スタイルオートというイタリアのデザイン誌だ。決して回し読みなどしない。これがデザイナーとしての矜持だ。この雑誌はやがてカースタイリングの発刊に繋がるのだ。そこに
イギリスのランドローバのデザインレポートがあった。僕のOさんもこんな骨太の仕事をしたいと語った。SJ30はそんなOさんの見事な仕事振りを証明してくれるロングライフなグッドデザインだと思う。鈴木自動車工業からスズキに代わっても、鈴木魂は引き継がれている。僕が携わったオフロードバイクのハスラーが4輪になったとしてもね(笑)
SJ30のデザイナーOさんと、実車を最高の状態で預かってくれたH師匠と、そして写真を届け、あの頃のちょっと後悔の念に駆られた大切な
思い出を蘇らせてくれたTさんに感謝!

ブルーバード411SSにも忘れられない
思い出と因縁がある。そんなクルマたちがごく自然にガレージにやってくる。いつかまたそんな想いを書いてみたい。
48の父
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